言葉による表現

2006年9月21日 (木)  Fragmentos puentefuente

   美術学部の実技のクラスは二時間三時間だったので、中間に休憩をするためにカフェテリアにいくのが常だったが、ある日のこと、あまり学部では見かけ ない顔の男の子が、お願いがあるんだけれど、と話しかけてきた。何でもわたしに出来ることなら大歓迎だ。手紙のようなものを出して、内容を教えてほしいと 言う。中国文だった。漢文を学んだことがあるけれど、手紙は全然分からなかった。正直に分からない、というと読めないなんて恥ずかしくないのか、と言う。 英語だって学んだけれど手紙も読めないだろう。でも外国語が読めれば良いことだが読めないことを恥だとも思わない、と思っているうちに、男の子はわたしが 中国人ではないということに気がついたのだった。

   マドリードでは、よく中国語で中国人に話しかけられる。そんな時、いつも幻の中国文学を思い起こすのだった。もうかなり前のことになるけれど、中国 文学を良く知る人から、世にもおぞましき、奇奇怪怪な小説の話を聞いた。描写も素晴らしかったけれど、展開が異様なるものだった。今はわからないが、その 当時は日本語に訳されていないと言っていた。それ以来その小説を読んでみたいものだと思っているのだ。しかし、もとの小説もさながら、この人の口述表現が 素晴しかったのではないか、と今更ながら思うだ。カフカの『変身』METAMORFOSISを読んでとても面白かったけれど、場面描写や展開など事細かに 第三者に話すことはわたしにはできない。感動したものを言葉によってどう伝達するかということは、感動したときの感情を言葉に置き換えるものであるけれ ど、忠実に精確に伝達することはそう簡単なものではない、といつも思う。物語は読む人によって、同じ媒体でも違う解釈をすることがある。読む人によって微 妙に解釈が違ってくるとわかるのは、映画化されたときに良く感じる。読んでいるうちに無意識のうちにも映像を描いているから、映画になったときには、原作 を読んだときの解釈とか、イマジネーションといったものとの差が出てくるからだろう。

   もしかしたら、題名と作者名をどこかにメモしてるかもしれないので、今度帰ったときには物置の段ボールの中を探してみよう。

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